都道府県はどのようにしてできたのか? -都道府県の成り立ちと変遷-

愛知県庁舎
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日本には47の都道府県があります。

これらの都道府県はどのような経緯で成立し、どのような変遷を経てきたのでしょうか?

実は最初から現在のような形であったわけではなく、紆余曲折を経て成立しています

ここでは都道府県の成り立ちと変遷について見ていきます。

なお、都道府県名の由来については次のページをご覧ください。

都道府県名はどこから来ているのか? -都道府県名の由来-

日本には47の都道府県があります。これらの中には県庁所在地と同じ県名、異なる県名が入り交じっています。 これらの都道府県名は何に由来しているのでしょうか? ここで…

廃藩置県と府県の成立

現在の都道府県につながる府県はどのような経緯で成立したのでしょうか?

府県の成立時期は旧幕府領(天領)と藩領とでは異なります。後者は明治4年(1871年)のはいはんけん以降に設置されましたが、前者はそれ以前の明治政府成立直後から設置されていました。

府藩県三治制

しん戦争の最中であるけいおう4年1月(新暦1868年2月)に、明治新政府はそれまで日本各地の幕府領に置かれていた奉行所や代官所に代わる行政機関として12か所の裁判所を置きました。この裁判所は現在の司法機関と名称は同じですが、性格はまったく別のものです。

同じ年の旧暦うるう4月(新暦6月)には裁判所の名称を順次府または県と改めました現在につながる府や県はこのときに成立したものが起源となりますまちぎょうおんごくぎょうなどの奉行所、じょうだい、京都しょだいが置かれていた10か所は府、それ以外の地には県が置かれました。府には知府事、県には知県事が置かれました。翌明治2年(1869年)には府は東京、京都、大阪の三都(三府)のみに限定され、それ以外の府は順次県に改称されました。

一方で各地にあったはたもと領も順に府県に吸収されましたが、藩領については従来通り大名が治めました。明治2年(1869年)にははんせきほうかんが行われ各藩の統治領域は名目的にちょうていに返却されました。これまで俗称であった「藩」という言葉が初めて公的な用語となり藩は政府の下の地方機関藩主は政府から任命されたはんという地方官と位置付けられました。ただし実質的にはこれまで通り藩領を大名が統治する体制が維持されました

このように旧幕府領の府県と藩領の藩が併存する地方統治体制を府藩県三治制と呼びます

ただし各藩は財政難や権威の失墜による体制の動揺などで従来の体制を維持できず、廃藩を申し出る藩が相次ぎました。これら廃止された藩の領域には順次県が設置されました。

廃藩置県

府藩県三治制は新体制である府県と旧体制である藩が併存する体制で、成立当初から統治は困難を極めました。府藩県の領域は従来の幕藩領域を継承したものであるため領域が複雑に入り込んでいたり飛び地が多かったりするなどして、統治には非効率でした。また府県の領域は全体の4分の1程度であったため政府が直接手に入れられる税収は少なく、財源の確保が問題になりました。

この体制を改めるべく、藩を廃止してすべて政府直轄の県を置くはいはんけんが明治4年7月(新暦1871年8月)に実施されました。知藩事は廃止され大名は失職し、ぞくとなって東京への移住を命じられました。代わりに各県には政府が任命したけんれいが派遣されました(三府は知事の名称が維持され、1886年には県令も県知事に改称)。これにより従来の府県と合わせて3府302県を数え、東北から九州までの領域が府または県のいずれかに属する体制となりました。

廃藩置県直後は従来の藩の領域をそのまま県に置き換えたため、従来の複雑な境界や飛び地は維持されました。このままでは非効率であったため、同じ年の10月から11月(新暦の12月から翌1872年1月)にかけて府県統合(第一次府県統合)が行われ、3府72県に整理されました。このときの整理は飛び地をなくし、旧来の国郡の領域を基本とした一円的な領域とされました。また府県の規模も財政状況などを加味され、ここに実質的に現在の都道府県につながる地方統治体制が初めて構築されました

廃藩置県後の都道府県

廃藩置県後の府県はどのようにして現在のような姿になったのでしょうか?

府県の整理

その後もしばらくは府県の整理統廃合は続き、領域は一定しませんでした。特に1876年(明治9年)に実施された府県統合(第二次府県統合)は大規模なもので、このときに過去最少の37府県に減少しました。これらは各県の財政規模にもとづいて設定されたものと考えられます。

だだしこれにより従来の国の領域を超えた広い領域を持つ県が誕生し、各地の地域間の利害が対立し各地で分県運動が発生しました。そのためその後は再び府県の分割が行われ、府県の数は増加していきました。最終的に1888年(明治22年)に愛媛県から香川県が分立して以降府県の分割は行われなくなり、この時点で現在の都道府県の枠組みが確定しました。

沖縄県の成立

沖縄と北海道はそれ以外の地域とは異なる経緯を持っています。

沖縄はりゅうきゅう王国が統治していましたが、他の地域から遅れて1872年(明治5年)に版籍奉還が行われ琉球藩を設置し、琉球国王は琉球藩王とされました。次いで1879年(明治12年)に琉球処分により琉球藩を廃止し、代わって沖縄県が設置され、他の県と同様に中央政府から任命された沖縄県令が派遣されました。

北海道の成立

北海道は人口密度が低く、開拓を推し進める地方行政機関としてかいたく使が置かれていました。明治5年(1872年)にそれまで道南の一部を支配していたまつまえ藩領を継承した青森県の領域が開拓使に移管されたことで北海道全土が開拓使の管轄下に入り、開拓使十年計画を立てて開拓施策を実施しました。

十年計画の満期を迎えた1882年(明治15年)に開拓使が廃止され、他の地域と同様に札幌、はこだてむろの3県が置かれました。3県の上に政府機関として北海道事業管理局が置かれ、この時代の体制は三県一局体制と呼ばれます。ただし依然として北海道は人口密度が低く、三県一局間の連携もうまく機能しなかったと言われています。

行政の効率化と開拓行政推進のため、1886年(明治19年)に三県一局を廃止、統合して北海道庁が設置されました。こうして北海道は1つの地方機関の下に置かれることとなり、北海道庁は他の府県と同列の機関と位置付けられました。ただし扱いは他の府県と若干異なり、府県と同格の法人格の名称としては「北海道」ではなく「北海道庁」で、トップの役職も北海道庁長官でした。

府県のその後

このようして1888年(明治22年)には現在と同様の1庁3府43県の枠組みが確立されました。府県間の境界の移動についても、1893年(明治26年)のさん地域(西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡)が神奈川県から東京府に移管された以外は小規模な移動にとどまり、現在まで大きな変動は発生していません。

戦時中の1943年(昭和18年)にからふとの内地編入により樺太庁が加わりました。また同年に、東京府が東京都と合併して東京都制に移行しました。戦時体制下において首都東京の府市二重行政を解消し行政の一元化することを目的とされましたが、実際には官選のトップ(東京都長官)のもと東京の自治権を剥奪し、政府の監視を強化することにあったとされています。この結果1都2庁2府43県体制になりました。

終戦により樺太は放棄され、戦後になって沖縄が米軍統治下に入り外れました。また地方自治法の施行により北海道庁は他都府県と同様に北海道が法人格の名称となりました。これにより1都1道2府42県体制となりました。

1972年(昭和47年)の沖縄返還により沖縄県が復帰し、1都1道2府43県体制となり、現在に至ります。

まとめ

ここでは都道府県の成り立ちと変遷について見てきました。

府県の成立は段階を踏んでいました旧幕府領と藩領とではそれぞれ異なる経緯をたどり一時的に府県と藩が並立していましたが、最終的に廃藩置県によって藩の領域が県に置き換わりました。その後も整理統廃合を繰り返して現在のような都道府県の体制になりなしたが、北海道や沖縄は他の地域とは異なる経緯を経て成立しました。

現在の都道府県が成立するまで紆余曲折があったことがおわかりいただけたのではないでしょうか?

参考・ソース

参考文献

  • 松沢裕作 『町村合併から生まれた日本近代 明治の経験』 講談社、2013年
    https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000195525
  • 齊藤忠光 『地図とデータでみる都道府県と市町村の成り立ち』 平凡社、2020年
    https://www.heibonsha.co.jp/book/b498585.html
  • 国史大辞典編集委員会編 『国史大辞典』 吉川弘文館、1979/1997年
  • 『日本歴史地名大系』 平凡社、1979/2003年
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会編 『新版 角川日本地名大辞典』 角川学芸出版、2011年