市制・町村制って何? -戦前の市町村の歴史-

旧東村山郡役所
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日本には2014年(平成26年)現在で1,718の市町村があります。

現在につながる市町村は明治中期に施行された市制・町村制によって成立しましたが、それらはどのようなものだったのでしょうか? また施行以降どのような経緯をたどったのでしょうか?

ここでは明治の市制・町村制から戦前の市町村の歴史について見ていきます。

なお、市制・町村制施行以前の町村の歴史については次のページをご覧ください。

市町村成立以前の町村はどのような姿だったのか? -近世以前の町村-

日本には2014年(平成26年)現在で1,718の市町村があります。 現在につながる市町村は明治中期に成立しましたが、それ以前はどのような姿だったのでしょうか? ここでは市…

市町村の成立

現在につながる市町村はどのような経緯で成立したのでしょうか?

市制・町村制の制定

現在につながる市町村は1888年(明治21年)に制定された市制、および町村制から始まります。市制と町村制は同時に制定され市町村について規定した法律であるため並べて記載される機会が多くなっていますが、本来はそれぞれ別個の法律です。

市制および町村制は当時のドイツの地方制度を参考にして作成され、市や町村を独立した法人として定め、独自の議会や予算を持った行政体(自治体)として定義され、個別の権限を持って各領域を運営することが定められました

従来の町村(以下、近世村と呼びます)は自然村をもとにした百姓の生活共同体であったと同時に、上位の幕府や藩、政府などの統治・徴税単位として機能していました。市町村は、表向きはそれ自体が権限を持って自主的に行政を施行する自治体として位置付けられつつも、実際は国から府県-郡へと階層化された行政の末端機関である行政村としての役割を持たせられた点が大きく異なります。

市町村の違い

市制および町村制の条文本文には市・町・村の要件に関する記載はありませんでした。ただし市は人口2万5千人以上の区域を想定しているものとされています。一般的に市制・町村制以前については、農村部は村(近世村)、町場や城下町など人口が集積している区域は町と呼ばれていたため、それを踏襲する形で町制や村制が敷かれ、その中でも人口2万5千人を超える区域は市制が敷かれたといってもよいでしょう。

いずれも首長(市町村長)や議会(市町村会)を置くことに違いはありませんでしたが、細かいところで違いがありました。市には執行機関として合議制の参事会がありましたが町村は町村長が執行機関として位置付けられました。また市長は市会が推薦した3名の候補者から内務大臣が選任した者が務めましたが、町村長は町村会から選挙で選ばれ府県知事の許可を得て就任する名誉職である、などの違いがありました。

市と町村との間での大きな違いは郡に所属するかどうかでした。市は郡に所属せず直接府県やその上の政府の監督を受けたのに対し、町村は郡に所属し、府県との間に位置する郡の監督を受けました

郡については次のページをご覧ください。

市はなぜ郡に属さないのか? -近代以降の郡の歴史-

住所を書く時に、都道府県の後ろが町や村の場合は間に「郡」が入ります(一部を除く)。市町村のうち市にはつかず、町村にのみつきます。 この郡は明治以降どのように変遷…

なお、市の中でも当時の大都市である東京、京都、大阪の三大都市については、配下に区が設置されたり市長は府知事と兼任とされたりと他の市とは別の扱いとされました(三市特例と呼ばれます)。

市町村の成立

市制・町村制は翌1889年(明治22年)以降に順次施行されましたが、全国一律に施行されたわけではなく、施行時期に差がありました。同年4月1日に37府県で施行され、その後順次残りの府県でも施行され10月1日までに計43府県で施行。前年12月に愛媛県とそこから分割された香川県の施行は遅れ、愛媛県は12月1日、香川県は翌1890年(明治23年)2月15日にずれ込みました。香川県を最後に北海道と沖縄県を除く45府県で施行されましたが一部のとうしょ部は対象外とされました。

市制・町村制が施行される以前は郡区町村編制法によって全国19都市に区が置かれ、東京は15区、京都は2区、大阪は4区、それ以外の都市は1都市に1区ずつ置かれていました。これらは行政体ではなく行政区分としての区でした。市制の施行によりこれらの区は一部の周辺町村を合併した上で行政体としての市に移行しました。三大都市と北海道の2区(札幌区、はこだて区)を除く17区は区の領域をもとに市制が施行されました。東京、京都、大阪の三大都市は全区の領域をもって1市とされ、従来の区は市の下部行政区域の区制として残りました。

区以外の区域には郡の下に町や村(近世村)が置かれていましたが、それぞれ行政体としての町や村に移行しました。それらの中でも人口2万5千人を超える都市部は郡の管轄を外れて市制を施行しました。郡部から市に移行した都市部や人口2万5千人に満たない町でも大規模な町場では市制・町村制施行以前は細かい町(町丁)に分かれており都市や町場全体をまとめた区分はありませんでしたが、市制によって新たに全体をまとめた区域が市や町として成立しました。

なお、当時の市や町の領域は市街地にあたる人口密集地に限られており、現在のように郊外区域は含まれていませんでした。

市制施行時には全国に40の市が成立しました。当時は県庁所在地であっても市ではないところも多く、青森、福島、宇都宮、前橋、うら、千葉、長野、大津、奈良、山口、大分、宮崎の12の県庁所在地は町でした。一方で府県庁所在地ではない市はひろさきよねざわたかおか、堺、ひめあかまがせきしものせき)、の7市ありました。1つも市がない県は福島、栃木、群馬、埼玉、千葉、長野、滋賀、奈良、大分、宮崎の10県ありました。

明治の大合併

市制・町村制の施行にあたって、行政村として機能させるために各地で合併が行われました。

市制・町村制施行前の1888年(明治21年)当時の近世村は100戸未満の村が7割を占めており、行政村として機能させるには規模が小さいと判断されました。市制・町村制施行以前から一部で連合事務という形で複数の町村の事務をとりまとめて行うことはされていましたが、行政体として行政区域と一体化することが求められました。

そのため、およそ300戸から500戸前後を適正規模となるよう周辺の町村と合併を行うことが推奨されました。こうして市制・町村制施行以前は全国に71,314あった町村が、施行後は15,859市町村に再編されました

これを後に全国規模で行われた昭和の大合併や平成の大合併と区別して明治の大合併と呼ばれます

市制・町村制以後の市町村

市制・町村制が施行された後の市町村はどのような経緯をたどったのでしょうか?

合併と市や町への移行

明治の大合併以降も小規模な合併が繰り返されました。一方で行きすぎた合併によって住民間の対立を招き、分割される市町村もあらわれました。

先に記載したとおり市制・町村制では市町村の要件は明記されていませんでしたが、人口や規模の順番に市・町・村という並びが認識されるようになりました。そのため、村制を施行した区域の合併や人口増加による町への移行、あるいは同様に町村制を施行した区域の市への移行が行われるようになりました。それらの移行も「町制」または「市制」と呼ばれます

都市の拡大と市の増加

都市部へは鉱工業の発達で都市への人口集中が進み、人口が増えていきました。同時に都市周辺の郊外へも都市化が進み、周辺の農村区域を合併編入して拡大する傾向がありました。各地で市は増え、1922年(大正11年)には39市、終戦直後の1945年(昭和20年)10月には205市を数えました。

大都市の制度の変遷

三市特例が敷かれた東京、京都、大阪の3市については府知事が市長を兼任する不完全な自治体制が続いていましたが、1898年(明治31年)に特例が撤廃され他の市と同様に市長が置かれるようになりました。ただし市の下に区を置く区制は継続されました。

区制が敷かれた市は長らく3市のみでしたが、1908年(明治41年)に名古屋市が追加され、次いで1927年(昭和2年)には横浜市、1931年(昭和6年)には神戸市が追加され、これらが戦前の六大都市として認識されました

なお、東京市は戦時中の1943年(昭和18年)に東京都制によって東京府と合併して東京都に移行しました。東京市の下にあった35区は東京都の管轄となり、権限が他の市町村よりも大幅に制限された自治体に位置付けられました。

市制・町村制が遅れて施行された地域

市制・町村制が施行されなかった地域はどのような経緯をたどったのでしょうか?

島嶼部および沖縄

本土と離れ交通が不便な一部のとうしょ部、およびりゅうきゅう王国による統治が行われていた沖縄は町村制が施行されませんでした。対象となる島嶼部はがさわら諸島、諸島、対馬つしま奄美あまみ群島です。

隠岐は1904年(明治37年)4月1日、沖縄(だいとう諸島を除く)と対馬、奄美、おおしまはちじょうじまは4年後の1908年(明治41年)、それぞれ本土の町村制とは別の法律で順次町村制が施行されました。それ以外の島嶼部はさらに遅れ、大島、八丈島を除くくらじま以北の伊豆諸島(やけじまなど)は1923年(大正12年)、あおしまおよび小笠原諸島は1940年(昭和15年)、はちじょうじまは戦後の1947年(昭和22年)に施行されています。なお、大東諸島は米軍統治下の1946年に施行されています。

沖縄の都市部にあたる那覇およびしゅには1896年(明治29年)に市に準じた区が置かれましたが、1921年(大正10年)に市制が施行されました。

北海道

北海道は人口密度が低い広大な区域が広がるため町村制が施行されませんでした。規模に応じて一級町村と二級町村の等級にわけられ、1900年(明治33年)より沿岸部から内陸部に向かって段階的に施行され、1923年(大正12年)にとろふとうまでの全土に町村制が施行されました。

北海道の都市部には市に準じた区が置かれました。1899年(明治32年)に札幌、はこだてたるの3区が置かれ、その後あさひかわむろらんくしを加えて6区に増えましたが、1922年(大正11年)に市制が施行されました。

まとめ

ここでは明治の市制・町村制から戦前の市町村の歴史について見てきました。

市制・町村制の施行によって、それまでの生活共同体としての町村は法人格を持った行政体である市町村に移行されました市と町村の間には、前者は人口2万5千人以上、後者は郡に属するなどの違いがありました。それらは順次各地に施行されましたが実施時期は場所によって異なりました。また市制・町村制施行にあたり各地で合併が行われました。この体制は市制・町村制施行以後も続き、人口増加に応じて各地で町制、市制を敷く区域が増えました

市制・町村制以降の市町村の歴史について少しは明らかになったのではないでしょうか?

なお、戦後の市町村については次のページをご覧ください。

市と町と村は何が違うのか? -市町村制度の成立経緯と違い-

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参考・ソース

参考文献