市はなぜ郡に属さないのか? -近代以降の郡の歴史-

関東地方の郡地図

住所を書く時に、都道府県の後ろが町や村の場合は間に「郡」が入ります(一部を除く)。市町村のうち市にはつかず、町村にのみつきます。

この郡は明治以降どのように変遷して現在のような形になったのでしょうか

また、なぜ市は郡に属さないのでしょうか

ここでは近代以降の郡の歴史を見ていきます。

なお、近世以前の郡の歴史については次のページをご覧ください。

郡はどのようにして成立したのか? -古代から近世までの郡の歴史-

住所を書く時に、都道府県の後ろが町や村の場合は間に「郡」が入ります(一部を除く)。市町村のうち市には付かず、町村にのみ付きます。 実は、郡は古代から現代まで続く…

明治初期の郡

明治初期の郡は地方制度の移り変わりとともにどのように変遷しているのでしょうか?

郡の新設

しん戦争の集結後、明治元年から翌2年(1869年)にかけて、明治政府は領域が広大だった陸奥むつのくにを5か国に、のくにを2か国に分割しました。また蝦夷えぞを北海道と改め、そこに11か国86郡を設置しました

これまで行政区画が置かれたことがなく、かつ人口がまばらな北海道で新たに郡を設定するにあたっては、基本的に地形、すなわち河川の水系にもとづいて設定されました。そのため郡の領域は沿岸部では狭く、内陸部では広くなる傾向があります。またいしかり川、しお川、かち川などの大河川の流域は内陸部を支流の流域で区切っています。

地方制度の変遷

明治4年(1871年)に実施されたはいはんけんにて全国の藩を廃止し、代わって府県が設置されました。その後幾度の府県の分割併合が進められましたが、府県の境界は一部例外を除き基本的に郡境をまたがないように郡単位で設定されました

明治5年(1872年)には大区・小区制が施行されました。これは府県以下の行政区画として大区、さらに下に小区を設置するというもので、「第1大区第2小区」などと数字で表されました。大区の区域は従前の郡の領域をそのまま踏襲したところが多く、東北地方から九州地方までの全国で907大区が設置されたとされています。

大区・小区制によって郡は行政区画としての役割は外されましたが、国とともに近世以前と同様に地名として存続し続けました。特に新たに郡が設置された北海道を除き、郡の領域にも小さな境界変更を除くと近世から大幅な変更はありませんでした

行政機関としての郡

郡はどのようにして行政区画や行政機関としての役割を持たされたのでしょうか?

行政区画としての役割の復活

1878年(明治11年)に郡区町村編制法が制定され、これにより大区・小区制に代わる行政区画として従前の郡を復活使用しました。ここに地名の機能しか持ち合わせていたなかった郡に古代りつりょうせい以来の行政区画の役割が復活しました

また、郡を行政区画とするにあたり規模を適正化するため、大規模な郡は分割されました。多くは既存の郡名の頭に方角や上中下などの区分称をつけた郡名となりました。一部で府県をまたがることになった郡は府県境で分割され、名称も府県間で重複しないように調整されました。

一方で、都市部には新たな区画として区が置かれました。これらの区は郡から独立した区画とされました。東京には15区、大阪には4区、京都には3区、その他全国17都市には1都市1区ずつ設置されました。

これらの結果、郡区町村編制法による郡の数は799郡となりました。

郡と区の違い

郡区町村編制法では郡と区は同格で、形の上では府県-郡区-町村の3層構造の地方制度が成立しました

郡の下の各町村(近世の町村で、規模は現在のおおあざや町丁に相当する)には公選の戸長が置かれ、初めて自治体としての法人格が与えられました。その上に位置する郡にも郡長を置き、郡を管轄する郡役所が置かれました。ただし郡長は官選で独立した法人格は与えられず、配下の町村を管理・監督するための府県の出先機関としての役割が大きいものでした。なお小規模な郡については、郡役所を複数郡で1か所にまとめられ、郡長も複数郡で1名とされるところもありました。

一方で区は郡と異なり、独立した自治体としての法人格が与えられましたが、区長は官選でした。また区の下の町村には戸長は置かれず、職務は区長の兼任とされました。法人格を持つという点では町村と同様ですが、府県の配下で首長が官選であるという点で郡と同様だったので、区は郡と町村の中間的性格を持っていたと言えます。

市制・町村制と郡

郡区町村編制法における町村は規模が小さく、逆に政府や府県(およびその配下の郡)の監督権が強く町村の自治権は限定的でしたが、1889年(明治22年)に制定された市制および町村制によって自治権が強化されました。

町村制については町村の自治権を強化するため合併が促され、およそ人口2,000人を目安に町村制が施行された地域で大規模な町村合併が行われました。これは明治の大合併と呼ばれます。なお、町村は引き続き郡に所属しました。

一方で市制によって新たな行政区画として市が置かれました。従来都市部に置かれた区に代わるもので、周辺町村を合併した上で1都市1区の都市は区をそのまま市に移行し、これまで区が置かれなかった都市でも人口が多かったところは市制が施行されました。1都市に複数の区があった東京・大阪・京都の三大都市は特例として従来の区を下部組織に位置付け、その上位に都市全体を管轄する行政区画として市が設定されました。なお市は従来の区と同様に郡から独立した存在とされました。

市制・町村制によって成立した市町村には公選の市町村長および市町村会(議会)が置かれ、大幅に自治権が強化されました。ただし特例だった三大都市については市長が置かれず代わりに府知事が職務を兼任するとされ、引き続き自治権が制限されました。

なお、市制・町村制は北海道、沖縄、および一部のとうしょ部には施行されず、それぞれ別の法律で順次市制や町村制が施行されました。

行政機関としての役割の復活

1889年(明治22年)の大日本帝国憲法の制定と前後して郡制が制定され、これまで府県の出先機関であった郡に府県と町村との間の中間的行政機関としての自治権が与えられました。それにより新たに議会として郡会および郡参事会が設けられました

郡を行政機関として適正な規模とするため、郡制の施行にあたっては小規模な郡の合併再編を前提としていました。帝国議会での郡再編の法案の審議の遅れや府県の体制整備の違いにより郡制の施行時期は府県によって大きく異なり、再編の少ない府県は比較的早期に施行されましたが、大幅な再編が伴う府県は制定から10年以上経った1900年(明治33年)まで施行がずれ込みました。ただし合併された郡の多くが小規模ですでに複数郡でまとめて郡役所や郡長を置いていたこともあり、混乱もなく進められました。

この時期に、それまで郡が置かれていなかった沖縄にも1896年(明治29年)に5郡が置かれました。

これにより、最終的に全国に639郡となりました。その後境界の変更や市制施行に伴う郡からの離脱・郡の消滅はあるものの、郡の枠組みはこのときのものが現在までほぼ引き継がれています

行政機関の役割の廃止

廃藩置県以降も繰り返されていた府県の分割併合は1889年(明治22年)の愛媛県から香川県の分立によってほぼ集結し、現在の都道府県の枠組みとほぼ同じ姿となりました。府県の体制が整うと府県と郡による二重行政の弊害が叫ばれ、郡制の廃止が検討されました。最終的に1923年(大正12年)に郡制が廃止され、1925年(大正14年)には郡役所も廃止され、郡役所が持っていた機能は府県に吸収されました。

郡制によって与えられた郡の行政機関としての役割はここで終止符を打ち、再び地名としての機能を持つのみの状態に戻りました

なお、郡制に近い府県の出先機関として太平洋戦争中に全国に設置された地方事務所や、戦前戦後に一部の都道府県で置かれている支庁、振興局などがあります。これらは郡の領域に近いものの必ずしも一致するものではなく、郡とは別の枠組みで設置されています。

現代の郡

行政機関としての役割がなくなったあとの郡はどのような経過をたどったのでしょうか?

市制を敷くと郡から離脱する仕組みは郡制廃止後も慣例として残っています

時代が下るにつれ戦後の昭和の大合併、平成の大合併を経て市町村合併で市町村の領域が拡大し、さらに市制により郡から離脱する自治体が増えました。かつての郡とほぼ同じ広さの領域をもつ市町村も現れてきています。

逆に郡に所属する町村は減少の一途をたどり、1郡1町村の郡も増えています。さらに所属する町村がなくなり消滅した郡も多数現れました。その一方で平成の大合併では郡をまたいだ町村合併も盛んに行われ、従来の郡の枠組みにとらわれない新しい郡の設置が3例現れました。

2018年10月の時点で371の郡があります。

市はなぜ郡に属さないのか?

市はなぜ郡に属さず独立した存在なのでしょうか?

現在において市が郡から独立した存在であるのは、その前身である郡区町村編制法による区に起源を持ちます。これはそれまで郡が地名のみの機能だったものに郡区町村編制法にて行政区画としての機能が加わったことにより、都市部の市部(区部)と農村部の郡部とをわけて管轄する必要があったことによるものと考えられます

当時の都市部は現在のように郊外は含まれず、文字通り住宅密集地のみを指しました。一般的に都市部と農村部とでは人口密度や土地利用、社会階層など違いが多方面で見られるため、それぞれ別の枠組みで管理しようとしていたと考えられます

都市部と農村部とをわけて統治するやり方は近世の江戸幕府や諸藩でも行われており、都市部(まちかた)はまちぎょう、農村部(むらかたかた)はぐんだいが管轄しました。江戸では「しゅびき」と呼ばれる江戸の範囲を示した朱色の線が町奉行と郡代の管轄の境界でした。明治の地方制度でもこの考え方は引き継がれていたと言えます

さらに当時特有の事情として、当時盛んであった自由民権運動への対応があります。運動の支援者たる商工業者やブルジョアジーなどは都市部に多かったため、彼らの自治の動きを制限すべく都市部には郡部とは別の枠組みを設定しようとしたものと考えられます。

まとめ

ここでは、近代以降の郡の歴史、および市が郡に属さない理由について見てきました。

近世まで地名として存続していた郡は、郡区町村編制法や郡制によって行政区画や行政機関として位置付けられましたが、最終的には郡制の廃止によってその役割は終了しました。ただしその過程で郡の整理統合が行われ、また市は郡から離脱する仕組みが作られるなど、現在にも続く郡の枠組みが形作られました市の領域の拡大とともに郡の領域が狭くなりながらも現在まで続いています

市が郡に属さないのは行政区画としての役割を持ったことにより都市部と農村部をわけて管轄する必要があったことによるものと考えられます

現在の郡がどのような経緯で存在しているのか、おわかりいただけたのではないでしょうか。

参考・ソース

参考文献

データソース