旧国はいつ廃止されたのか? ―旧国の役割の変遷―

日本国内は「かつて」東北から九州まで68の「国」に分かれていました。「武蔵むさし」「信濃しなの」「出雲いずも」など、人によっては聞きなじみのある地名もあるかと思います。

かつてはこの「国」(旧国、りょうせいこくと呼ばれることもあります)が現在の都道府県に相当する地域区分でしたが、はいはんけんで廃止され都道府県に置き換わった現在では過去の地名であると思っている方もいらっしゃるかと思います。

では、旧国はいつ廃止されたのでしょうか?

実際には旧国は廃止されたものではなく、現在も有効な地名なのです

ここでは旧国の成り立ちから現在に至るまでの変遷を追い、政治体制の管轄区域から地名としての役割への変化、そしてその地名としての役割が都道府県に代わる過程を見ていきます。

なお、旧国のあらましと分類については次のページをご覧ください。

むかしの「国」ってどんなもの? ―旧国のあらましと分類―

日本国内は「かつて」東北から九州まで68か国の「国」に分かれていました。「武蔵(むさし)」「信濃(しなの)」「出雲(いずも)」など、人によっては聞きなじみのある…

旧国名の由来および利用シーンについては次のページをご覧ください。

旧国名にはどんな由来があるのか? -旧国名の由来と利用シーン-

日本国内は「かつて」東北から九州まで68か国の「国」に分かれていました。「武蔵(むさし)」「信濃(しなの)」「出雲(いずも)」など、人によっては聞きなじみのある…

※以下、近世以前の記載では旧国の「旧」を省略し、近代以降の記載では「旧国」と記載します。

国の成立

国はいつ成立したのでしょうか?

国はりつりょうせいの整備とともに地方の行政機関として整備され、主に7世紀後半から9世紀初めにかけて成立したとされています。

国の領域

国の領域はりつりょうが整備される前に大和やまとちょうていに服従し地方を治める権利を与えられていた在地豪族であるくにのみやつこの支配領域をもとに、小さい領域は統合され、逆に大きい領域は分割されるなどして領域が定められました。

たいほう元年(701年)に制定されたたいほうりつりょうにより名実ともに律令に基づく国(りょうせいこく)として再編されました(律令制定以前に存在した国は「古代国」として区別することもあります)。その後も分割併合が続きましたが、最終的にこうにん14年(823年)にえちぜんのくにからのくにが分立したことで、その後に続く68か国の構成が確定されました。この68か国の構成はその後境界の変動はあるにせよ基本的には明治に至るまで維持されました

ちなみに国の領域は、当時の大和朝廷の支配が及ぶ東北地方南部から九州地方までの範囲でした。当初朝廷の支配は及ばなかった東北地方北部まで国(陸奥むつのくにおよびのくに)の領域が広がったのは11世紀ころでした。

地方行政機関としての国

国は律令制下では地方行政機関として機能しました。国の下には複数の郡が設置されました。中央の朝廷から地方長官であるこくが派遣され、それまで国を治めていた国造は国司の下のぐんに再編されました。これにより国造の勢力を弱め朝廷の権限を強める意図があったと言われています。国司の長官は「かみ」と呼ばれ、一般的には任命された国名と合わせて「武蔵むさしのかみ」などと呼ばれました。ただし常陸ひたちのくに上野こうづけのくになど一部の国は守にはしんのうが就任する「しんのうにんごく」(ただし実際には赴任しない)とされたため、人臣の最高位は次官の「すけ」であり、こちらも国名と合わせて「常陸ひたちのすけ」などと呼ばれました。

各国には国司や行政官が執務する「こく」と呼ばれる役所が作られました。また「国衙」が置かれた地を「こく」と呼びました。現在も全国各地に残る「国衙」や「国府」、または国の漢字の1字に「府」を合わせた地名(おうのくにほうなど)、国府があったことを示す「ちゅう」などの地名は、国衙が置かれた地であることに由来します。

このように律令制が機能している時代は、国は地方行政機関であり、同時に国という地方行政機関の政治体制の管轄単位を指す言葉でもありました

律令制の崩壊と国の地名化

国は時代とともにどのように変わっていったのでしょうか?

時代が下ると徐々に律令制が形骸化し、それとともに国の役割が変化していきました。

行政機関としての国の役割の変質

その後も国司の任命は継続されましたが、国衙は国を管轄する公的な地方行政機関としての性格から、けんもんと呼ばれる上級貴族が寄進された土地の税を徴収する私的な機関としての性格を強めていきました。

それとは別に新たに開発された土地は私有が認められたため新田開発が盛んになり、それがしょうえんとなって権門に寄進され、国衙の管轄外となる土地が増えていきました。国衙領(こうりょう)と荘園が同じような支配体系で並立する、公領荘園制が形成されました。

政治体制の管轄単位の分離と国の地名化

さらに時代が下り武士の時代になり、鎌倉幕府は国単位でしゅを設置しました。各地に配置された守護はだいぼん三箇条(京都おおばんやくの催促、謀反人の捜査逮捕、殺害人の捜査逮捕)と呼ばれる軍事、警察権をもとに各地で権限を強め、国衙や国司の権限を侵食していきました。続く室町時代は大犯三箇条に加え、かりろうぜき(武士間の紛争への介入)、使せつじゅんぎょう(司法権)の権限が加えられ、権限を楯に国衙の権限の侵食を進め、さらに国人(在地領主)や有力名主をかん(家臣)化していきました。こうして権限を拡大した守護は守護だいみょうに成長し、守護領国制と呼ばれる国内の一円的な支配体制を築きました。

国司はその後も任官は続けられましたが、守護に権限を奪われたために実効権限はなく、名目上の存在へと変化していきました。一方で時代が下ると朝廷から任命された正式な国司とは別に、かんと呼ばれる、国司の官職を武士が名乗るようになりました。

当初はひゃっかんと呼ばれる、朝廷の正式な任命を受けずに官職を自称、せんしょうしており、戦国時代になると戦国大名自身の権威付けや正当性を主張する目的で盛んに行われるようになりました。また力のある大名は朝廷に献金して正式に官位を得る者も出てきましたが、権威を得るための名目上の任官であることには変わりなく、律令制下の国司としての任務を行うことはありませんでした。

江戸時代になると武家官位は江戸幕府の管理下で大名統制に使用され、朝廷の任命とは完全に分離されました。国司の官職は主に有力大名が名乗り、同じ官職が代々の当主に引き継がれていきました。「ちゅうしんぐら」に登場する上野こうづけのすけよしなかの「上野介」は国司の武家官位の例です。

このように中世から近世にかけて、国は従来の律令に基づく地方行政機関としての位置付けから地方を支配するための管轄単位としての位置付けに変わっていきました。ただし1つの国が1つの政治体制下に一円支配されることは少なく、多くの場合は1つの国内に複数の政治体制が並立する状態にありました。

古くはすでに説明した公領荘園制に始まり、戦国時代はそれが顕著になり、1つの国内に複数の戦国大名や国人が割拠する状態となりました。江戸時代も一部を除き、引き続き1つの国内に複数の藩領や幕府領が混在し、複数の政治体制が並立する状態が続きました。ここに国は政治体制の管轄単位から完全に分離し、単なる領域を指す地名として存続していきました。

近代以降の旧国

明治以降の国は廃藩置県を経てどのように変わっていったのでしょうか?

廃藩置県と旧国

しん戦争の集結後、明治元年から翌2年(1869年)にかけて明治政府は領域が広大だった陸奥国を5か国に、出羽国を2か国に分割、また蝦夷えぞを北海道と改めそこに11か国を設置し、従来の68か国とあわせて84か国の構成となりました。これらは地名としての旧国であり、これらの旧国単位で政治体制が置かれることはありませんでした。ただしこれが地名としての旧国の最終形であり、この84か国の構成が現在も引き継がれています

一方で政治体制としては戊辰戦争後に府藩県三治制として旧幕府領に府県を設置し、各地の藩は従来のまま存置していましたが明治4年(1871年)のはいはんけんで藩を廃止し県が設置されました。その後幾度の府県の分割併合が進められ、1888年(明治21年)の愛媛県から香川県の分割をもって現在の47都道府県につながる道府県構成が完成しました。府県の再編にあたっては旧国の領域が尊重されたためおおむね旧国境が府県境とされましたが、一部は複数の旧国が統合されたり、また旧国が分割されたりしているところもあります。

このように明治になって政治体制は幕府や藩から府県に変わりましたが、地名としての旧国は変わらず存続していることになります。廃藩置県で旧国が廃止されたとよく誤解されやすいのですが、廃藩置県はあくまで政治体制としての藩を廃止し県を設置した政策であり、地名としての旧国を廃止したわけではありません。その後も法律で廃止されることもなかったため、旧国は現在も有効なのです。

なお、廃藩置県など都道府県の成り立ちと変遷については次のページをご覧ください。

都道府県はどのようにしてできたのか? -都道府県の成り立ちと変遷-

日本には47の都道府県があります。 これらの都道府県はどのような経緯で成立し、どのような変遷を経てきたのでしょうか? 実は最初から現在のような形であったわけではな…

地名の役割の交代

それなのになぜ旧国が廃止されように誤解されるかというと、都道府県が旧国に代わる地名として定着したことによります。

成立当初の府県は分割併合が多く、政治体制の管轄単位としての意味合いが大きく地名としての意味合いはなかったと言われます。実際に住所を書き表すときは、例えば「東京府武蔵むさしのくにとよぐんないとうしん宿じゅく町」といったように、都道府県名と旧国名とを併記するかたちが太平洋戦争前まで行われていたといわれています。

その後、特に戦後になると都道府県が地名として浸透し、旧国は過去の存在となりつつあります。それには次のような要因が考えられます。

  • 府県の再編が終了して半世紀経過して府県の領域が固定され、定着した
  • 市町村合併で旧国をまたぐ市町村が増えて旧国境が分かりにくくなった
  • 行政や経済界(特に戦時中に府県単位で統合した地方銀行や地方新聞など)で都道府県を表に出すようになり国を使うシーンが減った

こうして旧国は住所などを表す地名としての主役を都道府県に譲りました。ただしまったく使われなくなったわけではなく、副次的な役割を担うようになっています。

沖縄に旧国は置かれたのか?

さて、ここまでで登場しなかった沖縄には旧国は置かれなかったのでしょうか?

現在の奄美あまみ群島から沖縄県にあたる領域は近世までりゅうきゅう王国(正式名称は琉球国)の領域とされました。奄美群島はさつはんが実質支配を行っていましたが、名目上は琉球とされました。明治5年(1872年)に琉球王国を廃止して琉球藩を設置。さらに1879年(明治12年)に奄美群島はおおすみのくにに編入されましたが、沖縄本島以南は沖縄県されたものの旧国は設置されず、以後も設置されていません。従って、沖縄県の領域には現在に至るまで他国と同様の旧国は置かれていません

なお、一部の資料には琉球王国廃止後も「琉球国」と記載されている例はありますが、他の地域と同列に扱うために便宜的に記載されているものです。

まとめ

ここでは旧国の成り立ちから現在に至るまでの変遷を追い、政治体制の管轄区域としての国から地名としての国への移り変わりを見てきました。

律令制が機能している時代は、国は地方行政機関としての政治体制の管轄区域として機能していました。それが時代を下ると政治体制の機能の低下や政治体制の管轄区域の分離に伴ってその機能を失い、単なる地名としての存在となり現在に至りました。明治以降は廃藩置県によって政治体制が旧国の領域相当の都道府県に代わり、やがてそれが地名化していくとともに国の地名としての役割も徐々に失われていきました。

ただしそのような状態でも旧国は完全に廃止されたものではなく、現在も有効であることがおわかりいただけたのではないでしょうか。

参考・ソース

参考文献

データソース